どこにでもいる普通のカープファンの少年だった

昭和50年(1975年)私の生まれ故郷のプロ野球チーム広島カープは、創設25年目にして初優勝。
万年最下位と言われた地元チームの栄誉に、広島県民は空前の盛り上がりとなった。
当時私は小学校2年生。それまでプロ野球に全く関心の無かった私も、親たちと一緒になってカープを応援した。
今でも子供の頃の一番の思い出と言えば『カープ初優勝』。
不思議なもので小学校5年、6年の時の思い出がそれほどはっきり残っていないのに、
小学校2年生の時のあの出来事だけは今でもはっきりと覚えている。
その後カープは黄金時代を迎え、そして今ではまた弱小球団に逆戻りしてしまったけど、
もちろん今でも『カープ』の大ファンだ。

それにしても、今こうして香川で『ふとん屋』という仕事をしているのを不思議に思う。
子供の頃の夢と言えば『作家』『科学者』『プロ野球の審判』『プロの将棋指し』などなど・・・
もちろん深く考えてのものではないが、その中に『ふとん屋』という選択肢はもちろん全くなかった。
さしたる目標もないまま地元の広島大学に入学し、そのまま大学院まで行き『神経生物学』を専攻した。
そんな私が就職先に選んだのが、神奈川県の小田原市にある『カネボウ化粧品研究所』だった。

カネボウそれなりに充実していたカネボウ化粧品研究所時代

別に『世の中にない画期的な化粧品を作りたい』とか思ってのことではない。
何となくイメージが良かったから。
当時はバブルの終わりかけの頃。今と違って就職先選びに苦労のない時代。
私のような動機の人間でも採用してもらえた時代だった。
父親も自動車メーカー『マツダ』のサラリーマン。そして私もサラリーマン。
自分の人生にビジョンなんて全くなかったけど、漠然とこのまま定年までサラリーマンでいるのだろうと思っていた。

化粧品研究員の仕事はそれなりにやりがいのあるものだった。
自分の開発した口紅やマスカラがお店に並び、女性はきれいになりたくてそれを買ってくれる。
いわば『女性に美を提供する』仕事。世間一般のイメージからすれば、非常に華やかな仕事と映るかもしれない。

でも実際には『水』と『油』と『粉』を混ぜる仕事。
自分で作った試作品を、自分で付けてみて『これは発色がイマイチ』とか『これは付きが良いけど、持ちが悪い』とか・・・
ある意味マニアックな仕事だった。
ある日自分が口紅を付けたのを落とし忘れてそのまま退社、途中で寄ったコンビニで店員さんに変な目で見られたことがある。
下の写真はカネボウの新入社員研修の時のもの。自分で言うのも何だが、男が化粧をしている姿を見るのは気持ち悪いものだ(苦笑)

 

新商品の開発が佳境に入ると、一日100回くらい化粧品を付けては落としてということをやっていた。
口紅の開発担当だった時には、唇がカサカサに荒れていたし、
マスカラの開発担当だった時には、翌朝起きたら目から真っ黒な目やにが出たこともある。

雑誌『美的』の『WE LOVE マスカラ!』特集に登場したことも(『藤本』は昔の苗字)

研究・開発の仕事は、新しく品質の優れた化粧品を開発できればそれで終わりではない。
目指す品質の製品が、工場の大量生産でも安定して出来ないと意味がない。
料理で例えると分かりやすいだろう。1人前作るのと100人前作るのでは、同じように作るのはかなり難しいはずだ。
試作で1キロ作るのと、工場で1トン作るのでは、時として別物になってしまう事もある。

ある時大トラブルが発生した

私が開発したマスカラの新製品を工場で生産したところ、何度作っても研究所での試作品とは似ても似つかないモノになるのだ。
一日中工場に入って生産立会いをし、夜になったらその状況をもとに工場の幹部たちと会議(その日の生産結果報告と対策会議)。
家に帰ったら深夜、かなり遅めの夕食を摂ったらすぐに寝て、
そして翌朝起きたら会社に直行し、前日生産した製品の物性をチェック。こんな日々が何週間も続いた。
それでも生産が上手くいかないと、夜の会議で『いつになったらちゃんとしたモノができるんだ!』と怒号が飛び交うことになる。
怒られるのはもちろん私。あの時は辛かった。もしあの時健康診断を受けていたら、おそらく『胃潰瘍』と診断されたと思う。

しまいには『これ以上やっても無理なので、本社に掛けあって発売を延期するか?』という話にまで発展した。
それをやってしまうと会社の販売計画に大きな穴を空けてしまうことになるし、何より私のプライドが許さない。
工場の人たちに土下座をする勢いでお願いして生産を続けさせてもらい、
試行錯誤のうえ何とか思い通りの商品を生産できるようになった。
無事予定通り販売にこぎつけることができたのだ。
今思えばあの時の経験があるから、ちょっとぐらいのピンチでは何とも思わない精神力が身に付いたと思う。

年に数回『販売会議』なるものが行われる。

全国から販売責任者が集まり、その方々を対象に新商品の良さをプロモーションするための会議だ。

『化粧品本部』や『化粧品研究所』の担当者がプレゼンテーションを行うのだが、
通常は新商品の『コンセプト』や『技術的な良さ』を伝えるのが一般的だ。
しかしながら私はこののマスカラのプレゼンテーションをするにあたり、
技術的な話はほとんどせず、ひたすら『工場生産の苦労話』をしたのだ。

この時の会場の反応はすごかった。

私がプレゼンテーションを終わり壇上から降りようとすると、それこそ会場内はスタンディングオベーションだった。
これまでの苦労が報われた気がした瞬間だった。
そしてこのような苦労話は日本人の心の琴線に触れるのだと思う。
『それだけ頑張って作ってくれたのなら・・・』と全国の販売員さんたちが力を入れて販売してくださったおかげで、
その新製品は目標を大きく上回る結果を残すことが出来たのだ。

妻との出会いが私の人生を大きく変えた

カネボウ化粧品研究所の仕事は、やりがいのあるものだった。
そして何より職場の人間関係にも恵まれ、何の不満もない楽しい生活を送っていた。
でもその一方で『自分の人生このままで良いのかな?』という想いは心の中でくすぶっていたのもまた事実だ。
ちょうどその頃同じ研究所の隣の部署に、後輩として入社した来たのが現在の妻だった。

私たちは2001年の4月に結婚し、その後もカネボウに2年余り勤め、
2003年7月にカネボウ㈱を退社し、妻の実家である西部製綿㈱に入社した。

 

今こうしてふとん屋として仕事をしていて思う事は、カネボウ時代があるからこそ、今の自分があるということ。
扱う物は『化粧品』から『寝具』、職種は『研究』から『販売』へとまったく畑違いの仕事をしているワケだが、
カネボウ時代の経験が今の仕事のいろいろなところで活きていると思うし、
今でもカネボウ時代のことを懐かしく思い出すことがある。
カネボウ化粧品研究所での11年間は私にとって大きな財産だ。

最初『ふとん屋』の話を聞いた時どう思いましたか?

もし妻と出会わなかったら、そもそも私はふとん屋になるどころか、ふとん屋に行くことすらなかったはずです。
それくらい私にとってふとん屋は縁遠い存在でしたし、ふとんというものに対して全く無関心でした。
『羽毛ふとん1枚が5万円、10万円?何それ?高いなぁ。いらんわ…』というのがそれまでの私。
当時まだ若かったこともあり『ふとんなんて安くても何でも、寝られさえすればそれで構わない』と思っていました。

ただ・・・妻の嫁入りふとんで初めて寝た時には感動しました。
羽毛ふとんの軽さと暖かさ、敷きマットの寝心地の良さ(腰がとても楽でした)。
『ふとんってこんなに気持ち良いんだぁ』ということを生まれて初めて知りました。
それからは毎晩寝るのが楽しみになりましたね。
今私がこうしてふとん屋として、お客様に良い寝具をご提案している原点は、間違いなくあの時の感動にあります。

よく『ふとん屋』になる決断をしましたね?

理屈で考えたらそのままカネボウに残った方が良いに決まっています。給料の面でも、休日の面でも・・・
当時は年間120日は休んでいましたからね。今では実質ほぼ無休です(苦笑)
さらには良い仲間たちがいて居心地も良かったですし。
でも私にはどうもあのままの人生を歩んでもワクワクしないような、そんな気がして、
新しいチャレンジをすることにしたんです。

それともう一つは・・・こんなことを言うのは照れ臭いですけど、妻です。
もし西部製綿という会社がダメになったとして、無一文になったとして、いわゆる四畳半一間の生活になったとしても
-自分で会社を経営する立場になるということは、そういったリスクも考えないといけないと思うのですが-
『もし無一文になったとしても、この人と一緒なら幸せに暮らしていけるだろう。』と思えました。
そう考えたら何も怖れるものはないですよね。すっぱりと前向きに『婿養子として西部製綿を手伝ってやる』と決断をしました。

西部製綿に入社した時に、それまで『藤本』だった苗字を『石川』に変えました。
仕事を変わるのはさほどに思わなかったけど、苗字を変えるのは自分的に重かったですね。
役場に届け出する時にはさすがに“ぐっ”とくるもがありましたよ。

ふとん屋になって最初はどうでしたか?

まず最初に痛感したのは『自分ってなんて無力なんだろう』と・・・(苦笑)。

考えてみたら当たり前の話なんです。『寝具』とか『眠り』の知識はほとんどなし。
おまけに『接客』の経験も皆無でしたので、自分に出来ることが何も無かったです。
それまで11年間化粧品研究員として、それなりのプライドを持って生きてきたつもりでしたけど、
そんなプライドは見事に打ち砕かれましたね。

それともう一つ、入社したのが夏場だったこともあり『ふとん屋ってこんなにお客様が来ない(少ない)んだぁ(-_-)』・・・と(苦笑)
でもこれまた考えてみたら当たり前の話なんですよね。食料品などと違い、
ふとんは一度買えば長く使えてしまうアイテム。
頻繁に買い替える必要がないだけに、田舎のお店に毎日お客様がたくさん来られるということはありえません。

ここで私なりに強烈な危機感が芽生えました。
『このままじっとしていたらヤバいなぁ』『そもそも自分は何のためにここにやって来たんだ?』と・・・
そこで私なりに考えたんです。『とりあえず今の自分に出来ることは何?』って。

そこで私の出した結論は『お客様に来ていただけるようにすることが、今の自分に出来る最大の仕事だ』ということ。
お店にお客様が来られたら、接客は親たちに任せておけば良いだろうということで、
自分のするべきことは『販促』だと・・・誰に命令されたワケでもなくそう決めました。
そこで入社して1カ月も経たないうちに自分で勝手にチラシやらニュースレターを作り始めたんです。

最初は親からいろいろ言われたそうですが?

そりゃ当り前ですよね(苦笑)

親たちから見れば私なんて全くのドシロウト。
一方の親たちは、何十年もこの仕事をやってきたプライドもあるはずで、
それを差し置いて勝手にチラシやらニュースレターやら、しかもかなり斬新なモノを作り始めたのですから
『何やっているの?』と思うのは当たり前の話ですよ。
私が作るものに対して『あれダメ』『これダメ』といろいろと注文をつけられました。

でも私は自分のやり方を決して曲げなかったんですね。

もともと私は頑固な人間です。
私なりに西部製綿のためにこれがベストだと考えて始めたことですから、我が道をゆきました。
やはり親たちも婿養子に対しては遠慮があるはずでして、そのあたり間に妻を立てて巧妙に(?)立ち回り、
自分のスタイルを通しました。実の息子だったらこうはいかなかったと思います。

記念すべき(!?)店主のデビュー作(2003年10月『創業祭チラシ』と『せいぶ通信創刊号』)
店長曰く『作りは粗削りだし、表現は稚拙ではあるもののの、
この中で表現している内容そのものは、今とほとんど変わっていない』とか。

そうしたところ、意外と最初からお客様の反応が良かったんです。
お客様からいろいろとお褒めの言葉など頂戴するようになりまして、だんだんと親たちから文句を言われることもなくなりました。
今ではウチのお客様の中で私の作るニュースレターやDMを楽しみに待ってくれている人が大勢いますし、
何より親たちが私の作る作品を楽しみにしていたりします。

自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』とか?

あくまで自称ですからね・・・でもたぶん誰からもクレームは付かないと思います(笑)。

ちょっと自慢話になりますけど、私の作る販促物は全国あちこちの同業者の中でも結構な評判なんです。
私の作るDMやニュースレターはコピーがたくさん出回っているらしく、全く見ず知らずの初対面の方から
『せいぶさんのDM見ました。良く出来てますね♪』なんて声を掛けられることもしばしばです。
『誰がコピーを配ってるの?』と不思議に思ったりもするんですけど、光栄なことです。

よく人から『ふとん屋やめて、本を書く仕事をしたら?』なんて言われます。
でも私としてはふとん屋という仕事があって、その情報発信の手段として文章を書いているのであって、
文章を書くことそのものが目的になってしまったら、多分しんどいというか楽しくないと思うんですよね。

今では接客・販売もバリバリやっている様子ですが?

きっかけは私が入社してちょうど1年後にお店の改装を行い、その時に快眠ひろばの『オーダー枕』システムを導入したことです。
実は最初、親たちにはオーダー枕の導入にも反対されたんです。
『オーダーメイドなんて手間を掛けたところで、1万5千円(当時)もする枕が売れるはずはない。』と言うんです。

そこを何とか説得して始めました。

ですから『だから言っただろ・・・』と言われないように、私としても最初から必死でした。
おかげ様で最初から順調に多くのお客様にご来店いただき、私も頑張ってオーダー枕をお作りしました。
おかげ様でオーダー枕に関しては全国有数の成功店舗として評価されるようになりました。
そんな感じでやっていたら、接客に対して持っていた苦手意識がいつの間にかなくなっていたんです。

もともと私はかなりの人見知りでして、初対面の人と話すのは非常に苦手な人間だったんです。
でも今の仕事をやっていて、そんなこと言ってられませんよね。
人間ってその気になりさえすれば変われるものです。
学生時代とかカネボウ時代の私のことを知っている人が、
今の私に会ったら『随分と変わったなぁ』・・・って驚かれると思います。

この辺りのいきさつはmiteGO(三豊、観音寺情報誌)の創刊号(2014年11月)
『観音寺一の○○バカ!』で詳しく取り上げられた

ふとん屋になって後悔した事はないのですか?

それが全くないんですよ(笑)

ただ・・・この世の中には『上り坂』『下り坂』『まさか』の3つがあると言われていますけど、『まさか』の連続でしたね。
平成18年に製綿工場が火事で全焼したのが、その最たるものなんですけど、
それ以外にもここではお話しできないような『まさか』がたくさんありました。
いつかその事を自伝に書いてやる・・・と勝手に決めているんですけど(苦笑)

平成18年1月28日 製綿工場が火事で全焼

ただ強がりでも何でもなく、後悔したことは一度もないんです。
もともと私って楽観主義者なもので、少々の逆境や苦労はバネに出来るタイプの人間だと思います。
逆に『やりがいあるじゃん』と思えてしまうんです。

いろいろな資格なども取られてるそうですが?

私たちの存在意義を考えた時に、単なる『ふとん』『枕』『ベッド』という道具を売るだけではダメなんですよね。
やはりお客様に『気持ち良く眠っていただく』ことが一番重要なんです。
そう考えたら単なる商品の知識だけでは意味がないワケでして、
やはり『睡眠』に関する正しい知識を持って、お客様にきちんとしたアドバイスが出来ることが大切だと思うんです。

そこで『睡眠環境コーディネーター』『睡眠改善インストラクター』の資格を取りました。
あと『整体』や『東洋医学』の勉強をして資格を取ったりもしました。
だからと言って施術院を開くのが目的ではないんです。
やはり人の『姿勢』の見方でるとか『体』の見方を知っておくだけで、お客様に出来るアドバイスの引き出しは増えます。
ですから自分としては、職業は『ふとん屋』ではなく『快眠プロデューサー』だと思っています。

あと素材の研究のために、日本国内はもちろん、海外にも出張したりしています。
お客様に出来るアドバイスの引き出しを増やすためには、やはり情報収集は欠かせない部分です。
自分のお店の中だけにいると、陳腐化してしまいますからね。

平成22年1月 ポーランドのマザーグース農場にて

平成26年1月 ドイツ ケルンメッセ(ヨーロッパ最大規模の家具展示会)にて

寝具業界のいろいろな役をしておられるそうですが?

それに対して直接お答えする前に、先ほど申し上げた『まさか』の一つをご紹介します。

世の中ではあまり知られていませんけど、『ふとん屋』ってまさに衰退業界なんです。
具体的な数字でご説明しますと昭和60年に日本全国の寝具専門店で1年間に販売された寝具販売額の合計は約4000億円。
それが今では約400億円を下回っています。わずか30年の間に10分の1に減っているんです。
言ってみれば、かつてふとんはふとん屋で買うのが当たり前であったものが、
大手量販店やインターネットの普及により、当たり前ではなくなってきているということなのです。

2013年4月 商業界 香川同友会にて講演
講演テーマ『衰退産業を生き残る』サブテーマ『婿養子だからできた業態改革』

もともとふとん屋とは縁のない世界で生きてきただけに、そんなことこちらに来るまで全く知るはずもないワケでして
『俺が新しく入った業界は、こんなに景気が悪かったんだぁ(-_-)』って感じでした。
まさに『まさか』ですよ(苦笑) ただ私としては
縁あって寝具業界にやってきたのですから、この業界が良くなるための力になりたいという想いは非常に強いです。

平成23年2月 快眠フォーラムにて講演

平成25年5月 快眠ひろばの会 東北地域分科会にて販売指導

現在
『大阪西川チェーン 四国ブロック長』
『快眠ひろばの会 中国、四国地域リーダー』
をやらせてもらっています。12年前にいきなり他所からやってきてた“どこの馬の骨か分からない”ドシロウトだった人間が、
今では寝具業界の盛り上げ役として活躍させてもらっているということは、
本当に有難いことです。その分いろいろと負担も大きいのですが、それ以上に良い経験をさせてもらっていると思います。
おかげ様で全国で前向きに頑張っている同業者とのご縁をいただいています。
こういったつながりは今の私にとって非常に大きな財産です。

NHKの大河ドラマで龍馬伝を放映していた時、
これをパロって『ニセ龍馬』なるイメージキャラを仕立て、
ウチのチラシやDMに使っていた時期があります(笑)
もちろんシャレではありますけど、そこには私なりの一つのメッセージがあったんです。
『オレがふとん屋業界を変えてやるがぜよ!』みたいな♪

ふとん屋のどこをどう変えたいですか?

やはり何と言ってもふとん屋のイメージを変えたいです。

私がもと化粧品研究員だった事を知った人に
『せっかく良いところにいたのに、もったいない。』
と言われることが非常に多かったです。

もちろんその人は良い意味で言ってくれていることは分かるんですけど、
そう言われると私としては実はあまり良い気がしないんですよね。
まるで『ふとん屋が化粧品研究員より下』と言われているみたいで(苦笑)
ですからそういう時私はこう答えます。
『いえいえ。ふとん屋はやりがいのある仕事ですよ。今の方がやりがいがあって楽しいです』と。
決して無理して言っているのではなく、心底そう思っています。

ただその一方で、世間一般の方々のふとん屋に対するイメージがどんかものかも私には良く分かります。
もちろん決して悪いイメージではないのですが、何となく野暮ったい感じのはずです。
少なくとも『格好良い』というイメージではないですよね。

ただこの業界に入って分かった事は、
全国にはこの仕事にプライドを持って取り組み、『眠りの事を真剣に考えて』
『お客様に良い眠りをお届けしたいと頑張っている人がとても多い』ということ。

実は『格好の良い人の多い業界』なんです。

ですから一般の方々に『ふとん屋は格好良い』と思ってもらいたいですね。
そのためにはまず何より私自身が『格好良くあること』が大切です。
だからと言って、このことを声高に叫んだとしてもすぐに伝わるはずもないので、まぁぼちぼち頑張ります♪

最後に座右の銘を教えてください

3つあります。

1つめは『随所作主』です。

禅の言葉で、この後に『立処皆真』と続きます。『随所作主 立処皆真』という字面から、何となく意味は想像できると思います。
いろいろと解釈の仕方があるみたいですが、私は
『いついかなる時、いかなる場所であったとしても、今いる場所で、自ら主体性を持って最善を尽くせば、かならず道は開ける』
と解釈しています。ある本でこの言葉を見つけた時には『自分の人生はまさにその通りなんだ!』と思いました。
ようやく『この言葉と出会えた』という感覚でした。

2つ目は『利他の心』。

言葉の意味は説明するまでもないと思うのですが、『商売』でも、『人間関係』でも『人生』でも、
すべからくこの言葉に尽きるのではないかと思っています。
私自身そうありたいと思っていますし、ある程度は出来ている部分もありますけど、まだまだですね。

3つ目は『知行合一』。

要するに『知識は実践を伴わなければ意味がない。』ということ。
これだけ情報過多の時代ですから、知ることはある意味簡単なんですけど、実践することが大切。
でもこれが難しいことだと思います。この言葉の通り『批評家』『評論家』ではなく『実践家』でありたいですよね。
これに関しては自分自身まだまだ・・・だと思っているので、自らへの戒めの意味を込めて、最近座右の銘に加えました。